アンドレイ・タルコフスキー Andrei Tarkovsky

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アンドレイ・タルコフスキー
アンドレイ・タルコフスキー(ロシア語:Андрей Арсеньевич Тарковский, アンドレイ・アルセーニヴィッチ・タルコフスキー, 英語:Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月28日)は、旧ソ連の映画監督である。叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い 精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めて旧ソ連を亡命し、故郷に還ることなく54歳で 客死する。


[生涯]
1932年4月4日、ヴォルガ川流域のイワノヴォ地区、ユリエヴェツの近郊ザブラジェで生れる。父はウクライナの詩人として著名なアルセニー・タルコフス キー。タルコフスキーの幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自伝的作品 『鏡』 に描かれている)。この幼少時にタルコフスキーは、作曲家に成る事を夢見て居たと言われる。

赤貧のうちに育ち、芸術学校でまず音楽の勉強をしたが家にピアノが無いので練習不足で断念。次に絵の勉強を始めるが結核で一年間療養生活を送る。東洋大学 のアラビア語に入学するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャーガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキーはその流 行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ご す。

その後、映画大学への進学を決意。父親の尽力もあって1954年に全ロシア国立映画大学に入学。落ちこぼれだったタルコフスキーが名門のこの学校へ入学で きたのは奇跡だったと友人達は証言している。ミハイル・ロンムのもとで映画を学んで頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映画監督となるアンドレイ・コン チャロフスキーと親交を結ぶ。(その弟がやはり有名なニキータ・ミハルコフ。)アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』 を製作。

タルコフスキーの世代は、スターリン体制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ込んできた時期が青年期にぶつかっており、タルコフスキーもそうし た文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映画評論も、ジャン=リュック・ゴダールからルイス・ブニュエル、黒澤明、ロベール・ブレッソン、アン ディ・ウォホール、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマール・ベルイマンなど西側の映画への言及が多 い。

卒業制作短編 の『ローラーとバイオリン』(監督)はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。1962年にウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説 『イワン』 を原作とした 『僕の村は戦場だった』に急遽代役起用され、長編映画監督としてデビューする。これは1962年のヴェネチア国際映画祭でサン・マルコ金獅子賞、サンフラ ンシスコ国際映画監督賞を受賞。国際的に高い評価を得る。企画段階では参加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、将来のタルコフスキー作品 を彩るモチーフはこの時期から現れている。

将来を嘱望されたタルコフスキーはロシアの伝説的イコン画家の生涯を描いた歴史大作映画『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を1964年に友人のコンチャロ フスキーと共同執筆。大作ゆえの予算不足と検閲で苦しみながら1967年に完成するがソ連当局より「反愛国的」と指摘されて、国内では5年間上映されな かった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞受賞。

映画監督としての力量自体はモスフィルム関係者の中でも認められており、1972年には莫大な費用を費やした『惑星ソラリス』(スタニスワフ・レム原作) を製作。SF映画の概念を一変させたと評価された。カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1975年に自伝的要素の強い 『鏡』を完成、難解な映像が国内で厳しく批判される。1979年にはストルガツキー兄弟との共同脚本で 『ストーカー』 を撮影。検閲を巡ってタルコフスキーと当局の確執は深くなる一方だったが、独自の映像芸術は世界中の映画評論家やファンを魅了し、国際的名声と評価は高ま り続けた。決して娯楽作品とは言い難い『鏡』を輸出する際、ソ連映画の超大作『戦争と平和』(1965-1967)より金額は高く提示したのだが、それで も国際市場では買い手はついたという逸話が残っている。80年には『ストーカー』を含む全タルコフスキー作品でダヴィド・ドナテロ賞受賞。

その後、あくまで芸術家の自律性と表現の自由を求めるタルコフスキーは、ソ連を出国。イタリアにおいてフェデリコ・フェリーニの映画に脚本として関わって いたトニーノ・グェッラを起用して 『ノスタルジア』 を撮影。1983年完成。カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞受賞。

ロンドンでオペラの演出などをした後1984年、ソ連当局からの帰国要請を撥ね付け事実上の亡命を宣言。ただ、事前に相談を受けたコンチャロフスキーが助 言したように、この頃のソ連は各種の規制緩和が進んでおり(ミハイル・ゴルバチョフ書記長のペレストロイカは1985年)、わざわざ亡命を宣言する必要は 無かったと言われている。事実 コンチャロフスキー、ニキータ・ミハルコフ兄弟は亡命もせずに西側で映画を撮っていたのである。ソ連当局の検閲に対するタルコフスキーの積年の嫌悪と恨み はかくも強烈だった。

その後、スウェーデンで主にイングマール・ベルイマンの映画に携わっていたスタッフのもとで、核戦争勃発を背景とした 『サクリファイス』 を監督。1986年に完成。カンヌ国際映画祭審査員特別大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞、芸術特別貢献賞受賞。映画撮影時に、末期の胃癌が判明 してそのまま病床の人となる。

他方、祖国では、新たにソビエト連邦書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが公式にタルコフスキーの名誉回復を宣言し、帰国を認める声明を出すが、 1986年12月28日パリにて客死。翌年1月5日パリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀が行われた。


[作品の評価]
主に「世界の救済」をテーマに、夢と空中浮遊、あるいは犬や水や馬や火などを象徴的に配して独自の映像美を追求した寡黙な作品群は、難解という評価もある 一方で、全世界に熱狂的なファンを持つ。現在ではソ連/ロシアを代表する映画監督であり、その冗長とも退屈とも取られる時間感覚は「ロシア的」とも評され るが、親友コンチャロフスキーによる「彼はロシア文化より非常に西洋のカトリック文化の影響をうけている」という見方は重要である。

タルコフスキーを考える上で、更に見落としてはならないのがエリート芸術家という側面である。ソ連当局との軋轢は繰り返し語られているものの、タルコフス キーは国営映画会社モスフィルムの映画監督であり、特権階級であった。『惑星ソラリス』の撮影中に、セットの一部から出火しスタジオを類焼する火災が起き たが、タルコフスキーは「芸術家は頭を下げないものだ」として関係者には決して謝罪しようとしなかったというエピソードも残っている。ソ連を出国した後 も、「ノスタルジア」の撮影中には最上級ホテルのスイートルームと最上級の食事を要求し、その上で西側のプロデューサーの支払いが悪いという愚痴を日記の 中に延々と書き連ねているし、「芸術が大事なんですか?お金が大事なんですか?」とプロデューサーに詰め寄ることもあったという。芸術は何ものにもまして 最優先されるという、強烈な信念と自負が彼を支えていた。


[日本との関わり]
日本との関わりでは、タルコフスキーは、若い頃から日本の俳句や映画に深い関心を抱き、特に、黒澤明と溝口健二に傾倒していた事で知られる。黒澤明監督が デルス・ウザーラの撮影でソ連に来た際、タルコフスキーは敬意をもって歓待し、その後長く親交を結んだ。新しい映画を作る前には必ず『七人の侍』と『雨月 物語』を見る事にしていたという彼自身の言葉が残っている。

『惑星ソラリス』撮影の際には、未来都市の場面を大阪万博会場で撮影することを計画するが当局からの許可が中々下りず、来日したときには既に万博は閉会し ていた。跡地を訪ねたもののイメージどおりの撮影はできず、仕方なしに東京の首都高速道路の光景を撮影し『惑星ソラリス』で使用した。黒澤監督によれば、 あの首都高の光景はタルコフスキーのホテルから当時の黒澤明の事務所までの道筋そのままだったという。

黒澤明も当時の日本で「難解」という世評が支配的だったタルコフスキーを擁護して「タルコフスキーは難解ではない。彼の感性が鋭すぎるだけだ」などと書い て、タルコフスキー映画を国内に広めるのに手を貸している。

また、『惑星ソラリス』において、短いが広島の原爆についての会話を挿入している事や、『サクリファイス』の主人公である父親が、自分の前世を日本人であ ると信じている事、核戦争が起きた日に日本の木を植えている事などにも、タルコフスキーの日本への思い入れが感じられる。

日本側では、例えば作曲家の武満徹(1930−1996)がタルコフスキーの作品に傾倒して居た事は有名。武満は、タルコフスキーの死後にその死を悼ん で、弦楽合奏曲『ノスタルジア−−アンドレイ・タルコフスキーの追憶に』を作曲、タルコフスキーに捧げている。


[主な作品リスト]
ローラーとバイオリン Katok i skripka(1960年)


僕の村は戦場だった Иваново детство(1962年) *ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞


アンドレイの受難 …… 当初制作された「アンドレイ・ルブリョフ」の完全版
アンドレイ・ルブリョフ Андрей Рублёв(1967年)


惑星ソラリス Солярис(1972年) *カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ


鏡 Зеркало(1975年)


ストーカー Сталкер(1979年)


ノスタルジア Nostalghia(1983年) *カンヌ国際映画祭監督賞


サクリファイス Offret(1986年) *カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ


[外部リンク]
The Internet Movie Database: Andrei Tarkovsky

Nostalghia.com: Comprehensive website on Andrei Tarkovsky and his works

Andrei Tarkovsky at SensesOfCinema.com


[著作リスト]
「映像のポエジア〜刻印された時間」


「タルコフスキー日記〜殉教録」


「タルコフスキー日記〜殉教録(2)」


「サクリファイス」(ISBN 4309200931)(絶版?)


「タルコフスキー 若き日、亡命、そして死」(ISBN 4791755596)





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