松本 清張 (まつもと
せいちょう、男性、1909年12月21日-1992年8月4日)
は、日本の小説家。本名、清張(きよはる)。福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生れ。 生家が貧しかったために高等小学校卒業後、給士、版工などの職につく。1950年、朝日新聞社勤務中に書いた処女作「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の 小説」に入選、第25回直木賞候補作となる。1953年、「或る「小倉日記」伝」が、第28回芥川賞を受賞。以後作家活動に専念する。 1955年から『張り込み』『顔』で推理小説を書き始め、『点と線』『眼の壁』の二長編はベストセラーとなる。犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」と よばれる作品は「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功した。 このほか『かげろう絵図』などの歴史物を手がけていたが、『古代史擬』などで古代史に興味を示し『火の路』『眩人』に結実。また、『昭和史発掘』『日本の 黒い霧』などのノンフィクションで現実世界にも目を向け、多芸多才な作家活動を行った。 ほかの作品に、『砂の器』『Dの複合』『ゼロの焦点』など。 経歴 幼少時代 1909年12月21日、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎に生れた。姉二人は乳児のときに死亡していた。父は松本峯太郎、母はタ ニ。父は鳥取県日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした。父母は当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に渡っていた。1910年、 祖父母のいる下関市旧壇ノ浦に転居し、餅屋をはじめる。だが3年後に、線路建設のためダイナマイトで山を崩していたのに巻き込まれ、地滑りのために家が押 しつぶされ、田中町に移った。 1916年、菁莪尋常小学校に入学したが、翌年小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。古船場町の銭湯の持で暮らしていたが、のちにバラック家を借 り、そこに住んだ。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。翌年、一家は飲食店を開業した。 苦渋の前半生 1924年卒業し、川北電気企業社小倉出張所の給仕となり、文芸書を読むようになった。しばらくして家業が安定したため、祖母とともに間借住まいをする。 このころから春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、特に芥川龍之介を好んだ。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い として採用され、さらに別の印刷所に見習いとして入る。1929年、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に留置さ れ、父によって本を燃やされ読書を禁じられた。1931年に印刷所がつぶれ、高崎印刷所に戻ったが、嶋井オフセット印刷所で見習いとなり、その後みたび高 崎印刷所に戻り、内田ナヲと結婚。だが、印刷所の主人が死去したために将来に不安を感じ、1937年から自営。朝日新聞社九州支社の広告部意匠係臨時嘱託 となる。 1943年に正式に社員となるが、教育召集のため久留米第五十六師団歩兵第一四八連隊に入る。翌年六月に転属となり、衛生兵として勤務。朝鮮に渡り竜山に 駐屯、一等兵となった。1945年に転属、全羅北道井邑に移り、六月に衛生上等兵に進級。敗戦は同所で迎えた。帰国後は朝日新聞社に復帰。図案家としても 活躍し、観光ポスターコンクールに応募していた。 多作の作家人生 1950年、「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選。この作品は直木賞候補となり、上京。全国観光ポスター公募でも、「天草へ」が推選 賞をとった。1952年、木々高太郎のすすめで『三田文学』に「記憶」「或る「小倉日記」伝」を発表。「或る「小倉日記」伝」は直木賞候補となったが、の ちに芥川賞選考委員会に回され、第28回芥川賞を受賞。『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作。一方、日本宣伝美術界会九州地区委 員となり、自宅を小倉事務所とした。また意匠係の主任になり、1956年5月31日退社。9月に日本文芸家協会会員。 1957年『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞し、同年から雑誌『旅』に「点と線」を連載。翌年刊行され、『眼の壁』とともに「社会派推理小説」 とよばれ、ベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった。その後も執筆量は衰えず、『かげろう絵図』『黒 い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだが、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。 一方、『小説帝銀事件』であつかった現実世界は、『日本の黒い霧』にまとめられ、「黒い霧」は流行語になった。『わるいやつら』『砂の器』『けものみち』 『天保図録』を発表後、1964年から「昭和史発掘」の連載を『週刊文春』に開始。『古代史疑』で古代史にも目を向ける一方、『Dの複合』『砂漠の砂』な ど旺盛な活動を続け、1967年、第1回吉川英治文学賞を受賞。また、1970年、『昭和史発掘』などの創作活動で第18回菊池寛賞を受賞。 「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。このよう に多作の作家のなかでコンスタントに質の高い作品を出し続けた例は極めて稀で、このため複数の助手作家を使った工房形式で作品を作っているのではないか、 と平林たい子は韓国の雑誌『思想界』で指摘した。これに対し松本は、『日本読者新聞』において反論している。また、日本共産党の支持者でもあったが、その 生い立ちや作品における社会的視点を考えると納得できる面もある。その前半生は『半生の記』に詳しい。 1992年4月20日、脳出血のため東京女子医大病院に入院。手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓がんであることがわかり、8月4日に死去した。 『神々の乱心』が絶筆。1998年、北九州市立松本清張記念館が開館。書斎や書庫を再現している。 |