明恵


明恵(みょうえ、承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日))は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母 は湯浅宗重の娘。紀伊国で生れた。

4歳にして両親を失い、高雄神護寺に文覚の弟子上覚を師として出家。仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが俗縁を絶ち紀伊国有田郡白 上や同国筏立に遁世した。釈迦への思慕の念が深く2度天竺(インド)へ渡ることを企画したが、春日明神の神託が在り断念した。1206年(建永元年)後鳥 羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山し、観行と学問にはげんだ。戒律を重んじ、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力し た。『摧邪輪(ざいじゃりん)』『四座講式』の著作や、40年にも及ぶ観行での夢想を記録した『夢記』などがあり、弟子の筆記による『却廃忘記』など数多 くの著書がある。和歌もよくし家集『明恵上人和歌集』がある。

明恵について『ウィキペディア (Wikipedia)』の記事を読む


明恵に関連した本


[HOME]