平凡社 日本 陶磁大系


備 前

須恵器にまで遡る歴史をもつ備前焼は、6日も7日もかけて高温で焼かれるので、質が堅く、その擂鉢は全国に名を知られた。また室町以来の佗茶の隆盛に伴 い、茶道具としても欠かせない存在となる。

鍋島



木米

識字陶工とも呼ばれた文人・青木木米は、陶芸の世界でも早くからその名をあげ、折から都を風靡した文人趣味の流行にのり、交趾、金襴 手、南蛮、青磁、白磁 と名種の煎茶道具を造って評判をよんだ。

伊万里

広く世界に愛された絢爛。朝鮮人陶工李参平が有田泉山に磁器原料を発見して以来、有田では急速な磁器の生産が広まる。稚拙ながら力強 い初期伊万里染付に始 まり、絢爛豪華な染錦手は遠くヨーロッパへも数多く輸出された。オールカラー版。

常滑・渥美・越前・珠洲

自然釉のかもし出す野趣。中世以来今日まで窯の火を焚き続けてきた常滑、同じく北陸の越前、一方、なぜか中世の一時期で廃絶してし まった渥美と珠洲―これ らのやきものに共通するのは、たくまざる自然のおおらかさだ。

志野・黄瀬戸・瀬戸黒

桃山の代表的茶陶、志野・黄瀬戸・瀬戸黒が、瀬戸ではなく、美濃で焼かれていたことを発見した著者は、それまで途絶えていた桃山陶の 再現に没頭、ついに実 現する。人間国宝の著者が語る美濃陶のすべて。

古瀬戸

鎌倉時代、瀬戸地方で大量に焼かれたのが古瀬戸である。中国の宋磁を手本に、植物や魚の文様を彫ったり、スタンプで押したりした上か ら釉を掛け、祭祀用具 など、もっぱら上層階級の用品を焼いた。

薩摩

文禄・慶長の役から引揚げるに際し、薩摩藩主島津忠弘も、多数の陶工を朝鮮から連れ帰り、藩内各地に窯が築かれた。その後、瀬戸・肥 前・京焼等からも陶技 を学び、白もん・黒もん・錦手と展開する。

九谷

今やその焼成地はすべて有田とまでいわれている古九谷ではありながり、その雄勁にしてダイナミックな意匠の皿は、何故か加賀を中心に 伝世している―しかし 九谷古窯から古九谷は出土しなかった。

須恵

古墳時代後期の5世紀、朝鮮半島から渡来した人々は「窯」の技術を日本にもたらした。野焼した従来の土器に替って、1000度以上の 高温で燻し焼をする 「須恵器」は、その後平安時代まで永く焼かれた。

織部

桃山時代、志野のあとをうけて美濃で焼かれた織部は、そのひょうげた形が古田織部から愛で、好まれたところから、後世その名をもって 呼ばれた。自由奔放な その意匠は、今日の造型感覚にも通じる。

丹波

平安末期から、壷や甕を中心に製産してきた丹波は、茶陶も焼いたが、江戸期以降は、赤土部、イッチン、釘彫、貼付、摺込、墨流し、そ して色絵と、多岐にわ たる技法を用い、民窯として活況を呈した。

仁清



民窯



近代日本の陶磁

明治維新は、日本の窯業を一変させた。鉄道の発達によってますます寡占化されてゆく大窯業地のなかに個性的な作品を造りはじめる職人 たちが現われ、やがて そのなかから「陶芸作家」が誕生する。


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