坂口安吾
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坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年2月17日) は日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(
へいご)。名前の由来は「丙午」年生まれの「五男」に因んだものである。東洋大学文学部印度哲学科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸エッ
セイまで、幅広く活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人である。
一人息子の坂口綱男は写真家。
[人物と作品]
1946年に発表した『堕落論』は終戦後の暗澹たる世相の中で、戦時中の倫理を否定し、「堕ちきること」を肯定して多大な反響を呼んだ。小説『白痴』との
2作によって安吾は戦後の世相に大きな影響を与える。また、太宰治、石川淳、織田作之助らと共に新文学の旗手とされ、無頼派と呼ばれる。これによって人気
作家となるが、ヒロポンなどの薬物を打ちながらの執筆により薬物中毒となり、遂に錯乱状態となって入院、退院後に再発して伊東での転地療養で回復に至っ
た。
自伝的作品として「風と光と二十の私」などがある。主に20代の青春期の精神遍歴を連作風に書かれ、特に「二十七歳」「三十歳」では当時新進女流作家で
あった矢田津世子との恋愛についてを描いて愁眉であり、安吾自身も年代記の眼目としている。
歴史小説としては、三好達治の影響で切支丹に興味を持った1940年に「イノチガケ」を「文學界」に発表、続いて「島原の乱雑記」「鉄砲」を書く。戦時中
には作品発表の場が大幅に減り、歴史書を読み漁り、1944年に「黒田如水」発表、翌年「二流の人」執筆(1948年刊行)、1947年「家康」「道鏡」
を発表。「道鏡」は、戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられ、内容はむしろ女帝としての孝
謙天皇を描いたものだったが、天皇家の権威を否定する史観も含んでいた。1951年から日本各地を取材してその歴史考察を記した「安吾新日本地理」を「文
藝春秋」に連載、古代王朝に関する大胆な仮説も提唱した。翌年には「安吾史譚」を「オール讀物」連載。1955年に「安吾新日本風土記」を「中央公論」で
連載開始するも未完のままとなる。1952年10月から翌3月まで新聞「新大阪」に覆面作家として連載長編小説「信長」を発表。連載と並行して作者名を当
てる懸賞募集も行われ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。
少年時代から推理小説の熱烈な読者であった安吾は、第2回探偵作家クラブ賞を受章した『不連続殺人事件』の他、長編『復員殺人事件』、短編「能面の秘密」
など、時代ものとして『明治開化安吾捕物帖』を書いた。安吾の推理小説は「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」という考え方によるもので、推理作家
としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げている。
1957年、新潟市寄居浜の護国神社境内に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された。また毎年2月17日は安吾忌が催されている。
[年譜]
*
1906年、新潟県新潟市西大畑町に父・坂口仁一郎、母・アサの五男として生誕する(本籍地は新潟県中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺(旧・新津市大安寺))。
13人兄弟の12番目であった。
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父・仁一郎は憲政本党の衆議院議員で、かつ「五峰」の号をもつ漢詩人。政治家としては、若槻礼次郎、加藤高明らと、文学者としては会津八一と親交があっ
た。また、兄の献吉は新潟新聞(現・新潟日報)二代目の社長を務めた。
* 1913年
新潟尋常高等小学校に入学。幼少時は破天荒な性格で知られ、餓鬼大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘で遊び回る。立川文庫の『猿飛佐助』を愛読
し、忍術の方法を研究した。
* 1918年 新潟尋常高等小学校を卒業。何度か落第の危険に陥った。
* 1919年 県立新潟中学校(現・県立新潟高校)に入学。
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小説は早くから読んでおり、少年期以降はオノレ・ド・バルザック、谷崎潤一郎などを読んでいた。反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、エドガー・アラン・
ポー、シャルル・ボードレールなどに影響を受けた。
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殆ど学校には通わず落第し、家庭教師をつけられたりしたが逃げ回っていた。
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日本の歴史に興味を持ち「講談雑誌」を愛読する。
* 1922年
県立新潟中学校を放校処分、東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)に編入し、父、兄献吉と東京府戸塚諏訪町に住む。
* 1923年
父・仁一郎死去。このころ文学への興味が深まり、石川啄木、北原白秋などを愛読、短歌を作り、また仏教にも関心を寄せる。
* 1924年
文学に自信を持てず、野球や陸上競技に熱中、ハイジャンプではインターミドル(全国中等学校陸上競技会)で1m57cmの記録で優勝する。
* 1925年
世田谷下北沢の荏原尋常高等小学校の代用教員に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となる。この頃「改造」誌の懸賞小説に応募して落選す
る。
* 1926年
代用教員を辞し、東洋大学文学部印度哲学倫理科(現:インド哲学科)に入学。在学中は睡眠4時間の生活を1年半続けて神経衰弱におちいり、それを克服する
ためにサンスクリット語、パーリ語など語学学習に熱中した。
* 1928年、アテネフランセに入学。正宗白鳥、芥川龍之介、ボーマルシェなどを耽読した。
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1930年3月、東洋大学を卒業。4月、アテネフランセの中等科から高等科に進み、フランス語に打ち込むとともに、本格的に20世紀フランス文学を学び始
める。5月、池袋の借家から荏原郡矢口町に移る。11月、葛巻義敏、江口清らと同人誌『言葉』を創刊。創刊号の「メランジュ」欄にマリイ・シエイケビツチ
「プルウストに就てのクロツキ」の翻訳を掲載。
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1931年1月、『言葉』2号に処女作「木枯の酒倉から」を発表。『言葉』はこの2号で廃刊となる。5月に後継誌『青い馬』を創刊。創刊号に「ふるさとに
寄する讃歌」を発表。6月の2号発表の「風博士」は牧野信一から絶賛された。7月の3号発表の「黒谷村」は島崎藤村の賞賛を受けた。この頃から新進作家と
しての地位を獲得した。
* 1935年、処女小説集『黒谷村』を出版。
* 1937年 京都に下宿し、長編『吹雪物語』を書きながら、囲碁三昧の生活を送る。
* 1938年 帰京して本郷の菊富士ホテルに滞在、その後長編小説執筆のために取手の取手病院に住み込む。
* 1942年、母死去。
* 1943年、エッセイ集『日本文化私観』を刊行。
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1940年代前半は、大東亜戦争中のため、執筆活動が大幅に減った時期だった。安吾はその間に歴史書を読んでいた。
* 1946年、エッセイ『堕落論』、小説『白痴』を雑誌『新潮』に発表。
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エッセイは他に、『デカダン文学論』、『堕落論・続編』などをそれぞれ文芸誌に発表した。
* 1947年、前年の反響が大きかったため、執筆のペースは大幅に増えた。
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『風と光と二十の私と』を『文芸』に、『戯作者文学論』を『近代文学』にそれぞれ発表。また、名作として名高い『桜の森の満開の下』を『肉体』に発表。
『堕落論』を銀座出版社より初めて刊行。
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9月以降、「日本小説」に、推理小説『不連続殺人事件』を発表。
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10月、『青鬼の褌を洗う女』を『週刊朝日』に発表。**12月には表題作を含めた短編集を山根書店より出した。
o この年に、梶三千代と結婚した。
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写真家平忠彦と酒場ルパンで知り合う。「カストリを飲む会」を通じ交友し、自宅の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真が後に有名になった。
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1948年、『風と光と二十の私と』、『不良少年とキリスト』、『不連続殺人事件』を刊行した。また『坂口安吾選集』を銀座出版社から刊行した。
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『不連続殺人事件』は、探偵作家クラブ賞を受けた。
* 1949年、薬中毒により東京大学病院に入院した。
* 1950年、推理小説や大衆小説、エッセイを多数発表した。
* 1951年、『新日本地理』のため、全国を旅行した。それらいくつかの文章を『文芸春秋』に掲載。
* 1955年、脳出血のため桐生市の自宅にて死亡した。享年49。
[主要著書]
[小説]
* 吹雪物語
* 白痴
* 桜の森の満開の下
* 信長
* 二流の人
* 不連続殺人事件
* 街はふるさと
* 夜長姫と耳男
[エッセイ]
* 堕落論
* 続堕落論
* FARCEに就いて
* 日本文化私観
* 文学のふるさと
* 教祖の文学
* 安吾巷談
[関連書籍]
[作品集]
* 『定本坂口安吾全集(全13巻)』冬樹社 1967-72年
* 『坂口安吾全集(全18巻)』筑摩書房 1989-1991年
文庫
[評伝]
* 坂口三千代『クラクラ日記』文藝春秋 1967年
* 檀一雄『太宰と安吾』虎見書房 1968年
* 庄司肇『坂口安吾』南北社 1968年
* 奥野健男『坂口安吾』文藝春秋 1972年
* 荻野アンナ『アイ・ラブ安吾』朝日新聞社 1992年
* 「ユリイカ」青土社 1986年10月号「特集 坂口安吾」
[その他]
* 林忠彦『カストリ時代』朝日ソノラマ 1970年(安吾の仕事場の写真を収録)
* 山田正紀『弥勒戦争』早川書房 1976年(焼跡の酒場で自身の経験による恋愛論などを語る安吾が登場する)
* 野崎六助『安吾探偵控』東京創元社 2003年
[関連人物]
* 小林秀雄(批評家)
* 柄谷行人(批評家)
*
野田秀樹(劇作家・俳優、『贋作・桜の森の満開の下』を発表)
[外部リンク]
* 坂口安吾デジタルミュージアム
* 坂口 安吾:作家別作品リスト(青空文庫)
* 坂口安吾専門ページ【安吾的】(安吾全集の索引有り)