手塚治虫
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手塚 治虫(てづか おさむ、てづか おさむし(初期のみ)。本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 -
1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、医師。大阪府豊中市に生まれ、兵庫県宝塚市で育つ。医学博士の学位を持つ。戒名は伯藝
院殿覚国蟲聖大居士。
[略歴]
1928年 - 11月3日、大阪府豊能郡豊中町で生まれる (本名は明治節の生まれだった事から)。
1933年 - 兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に引っ越す。このころから母とともに宝塚歌劇に親しむ。
1935年 - 池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)に入学。小学4年の頃手塚治虫というペンネームを思いつく。
小学2年生くらいから漫画を描き始めていた。
最初期には特にディズニー絵本の模写をおこなっていた。
1941年 - 大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学。
教師の目を盗み、自作漫画を校内で回覧したり、戦時中の勤労奉仕先の軍需工場のトイレ(軍事教官用とは隔離されていた)の壁にこっそり自作漫画を貼ったり
していた。
1945年 -
北野中学を四修(飛び級)で旧制浪速高校を受験して失敗、大阪大学付属医学専門部に入学(戦前に軍医速成のため臨時に付設された医学専門学校、師範学校の
医学版)。(1944年浪華高校理乙入学、あるいは大阪大学予科入学と記した資料もあるが、浪華高校も大阪大学予科も実在しない学校)
1945年 - 勤労動員中に6月の大阪大空襲に遭遇し、着の身着のままで宝塚まで帰る。この時の体験は『紙の砦』『どついたれ』などで描かれている。
1946年 - 1月4日、『マアチャンの日記帳』(少国民新聞)でデビュー。
1951年 - 1年留年して大阪大学付属医学専門部(旧制)卒。制度改革により医専が廃止されたため、阪大医専最後の卒業生となる。
1952年 - 医師免許取得。東京四谷に下宿する。
1953年 - 東京都豊島区のトキワ荘に入居。
1958年 - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。
1959年 - 結婚。結婚相手について、手塚本人は、おさななじみと述べているが、長男・眞によれば、血縁関係のない遠縁の女性だという。
1961年 - 奈良県立医科大学で医学博士の学位を取得。長男・眞が誕生。
1963年 -
自ら社長を務めるプロダクション、虫プロダクションを率い、日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作。フジテレビにて1月1日から放送。
1965年 - 日本初のカラーアニメシリーズ『ジャングル大帝』をフジテレビにて10月6日から放送。長女・るみ子が誕生。
1970年 - 日本万国博覧会にて「フジパンロボット館」をプロデュース。『アポロの歌』に性的描写があるとして、一部地域で発禁に処される。
1971年 - 虫プロ社長を退任。
1973年 -
虫プロ商事・虫プロダクション倒産。経営から退いた後も、手塚は多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、友人の葛西健蔵(現・アップ
リカ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。
1975年 - 『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
1977年 - 『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。
1979年 - 巌谷小波文芸賞受賞。
1983年 - 『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞受賞。
1984年 - 『ジャンピング』でザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリを受賞。
1985年 - 『おんぼろフィルム』で広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ受賞。
1986年 - 『アドルフに告ぐ』により第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
1989年 - 2月9日、胃がんのため半蔵門病院にて逝去。享年60。勲三等瑞宝章叙勲。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
手塚治虫記念館1990年 -
全業績に対し第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。テレビアニメシリーズ『三つ目がとおる』をテレビ東京にて10月18日から放映。
1994年 -
兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が開館する。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初舞台公演として『ブラック・ジャック
危険な賭け』『火の鳥』を上演。
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[外部リンク]
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